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SONG OF THE EARTH FUKUSHIMA 2017に参加して

福島市出身の私は、2011年3月14日、東京から新潟経由の高速バスに乗り、約7時間かけて実家にたどり着くことができた。
車内で『水素爆発した』とのラジオが流れた。
一週間予定だった帰省は一年滞在に延長され、実家近くに点在する避難所で、わたしなりにボランティアを続けた。
当時、東京で仕事をしていた姉始め、たくさんの友だちからは『避難してくれ』と連日のように連絡が来た。もしわたしが福島に帰省せず、この現状を目の当たりにしなかったら同じことを言っていただろう。
福島市は放射線量が高いものの、都市であり、人口が多いということで避難地域に指定されなかったため、自主避難する人は補助金が出ない。福島以外に行くあてのない人は、ここに残らざるを得なかった。
その年の夏頃だっただろうか。東京のあるイベントに呼ばれ、数名の方に交じりわたしも登壇させて頂いた。ほかの3名が『避難すべきなんです』と訴える中、わたしは『残らざるを得ない方たちの支援をお願いしたい』と話した。

汚染されている地域に人を招き、助けてくださいと願うこと。
逃げなくてはいけないのに、この女性はなにをバカげたことを言っているのだろうと思われたと思う。
でも、東京から持ち込んだ微々たる物資を渡したとき、父が涙を流したこと。

蛇口をひねればばんばん水が出るはずのお風呂場に、腰を痛めながらも井戸水から汲んできたと思われるバケツがいくつも置いてあったこと。
親戚がいる秋田に行くか、でもそこまでガソリン持つかな、と普段は強気な父がぼそっとつぶやいたこと。
悔しいことをたくさん見てきたからお願いした。

『福島に残らざるを得ない人たちへの支援をお願いします』。
これをしてくださっているのが、Candle JUNEさん率いる、LOVE FOR NIPPONだ。

一年ごとの3.11だけじゃなく、11日という月命日にも必ず福島に来て活動してくださっている。
JUNEさんは“6年間の売名行為”と言って笑ってみせるけれど、売名行為でできるキャパを超えているし、売名行為だとしても、被災したみなさんにもう一度生きる勇気、もう一度笑うことができる場所、6年経っても忘れられていない存在価値を誰よりも与えているのは確かだ。
実家から毎日避難所に通いボランティアをしていたけれど、一年しか続けられなかった私からすれば、
『支援したいけどどうすればいいかわからない、仕事でできない』
そんな仲間をうまく取り込んで、今でも続けているLOVE FOR NIPPONに心から感謝している。
縁あって、先日行われたSONG OF THE EARTH FUKUSHIMA 2017 311に参加した。

場所は実家のある福島市の隣、郡山市。
福島第二原子力発電所近くの富岡町と川内村の方々が暮らす仮設住宅だった。

川内村が所有する仮設住宅が今年3月で終了し、それぞれがふるさとに戻ったり近隣アパートなどに越すことで、3年前には546名住んでいたというこの仮設住宅は150名ほどに減っていた。

肌が締まるほどの冷たい風が吹いていたことも手伝い、
『人、来るのかな』とちょっぴり思ったけれど、延べ1,600人ほどが集まった。

わたしは裏方でカフェのお手伝いをしていたので会場に長くはいなかったけれど、『みんな生き生きしてる』
そんな印象で、それだけで満足だった。
生きている限り辛いことはたくさんあるけれど、希望を持つこと、笑う日があること、仲間がいること、想い助け合うこと、それらが失わなければ充分じゃないか。

そんな生きる希望を与えてくれるのがLOVE FOR NIPPONで、続けることで信頼関係ができて、被災した人たちから真心のおもてなしが返ってくる。

町民がLOVE FOR NIPPONメンバーを『JUNEさん、なっちゃん、しょうちゃん』などと親しく呼び、『休ませんせ、食わんせ』と賑やかな場面を見ていると、見返りを求めているわけではないけれど、自然と返ってくるものなんだと改めてわかる。

3.11がなかったら気付けなかったこと、築けなかったこと。自分のことで精一杯の毎日に、たまにだけでもいい。
人のために動くこと、被災地へ行ってみること、LOVE FOR NIPPONを支持することを。願ってやみません。

2017.3.16
湯野澤いづみ