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10/21,23新潟中越地震の起きた場所で活動してきました
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10/21.23新潟中越地震震央地である長岡川口でおこなわれた
震災から8年目の追悼イベントに参加してきました
これはうちが新潟中越地震以降ずっと地震のおきた10/23におこなってきたイベントです
”震災復興から更なる発展を”目指したこのイベントは
追悼式典もおこないますが
会場内では物産展も開催し、さらには音楽イベント的フェスティバルの内容がつまったものとなっています
ラブフォーニッポンでは
春から福島のみなさんと作ってきたお米をこのフェスティバルで披露しようと
福島のみなさんにも参加いただきました
お母さんたちはこの日を楽しみにしていてくれ
ここでこの田植えツアーの収穫祭という意味あいにもなれました
また
あわせて宮城県の津波被害地域での活動ではじまった、”山元タイム”のみなさんにもきていただき
山元タイムでつくっているものなども紹介しました
これまで震災のあった場所で活動し、つながってきたみなさんに
ぜひ新潟の”震災から発展を”してきている今を感じてもらおうと企画しました
もちろん新潟のみんなにも現在の被災地のみなさんとのつながりをもっと多くの人に伝えよう
これからも一緒に喜びや感動を分かち合っていこうと一緒にフェスティバルをつくってもらいました
福島のみなさんは
できたてのお米を使っておにぎりをつくり
それにあうような様々なおかずも作ってくれました
田植えを一緒におこなった新潟の若者も一緒につくり、終止楽しく笑顔がたえず、餅つきに参加したり
”希望の風船飛ばし”などにも参加してくれました
また
このイベントで大切なものの一つがキャンドルメッセージです
”にいがたからみんなえがおに”
これは当時の中学生たちが考えてくれたことばです
中越地震を体験した当時小学校6年生たちは震災後に中学校に入学しました
友人を震災によって亡くしたその子供たちの通う中学校の三年間はグラウンドに仮設住宅が立ち続けた三年間でした
自分たちの学校のグラウンドでは一度も体育や運動会ができなかった子供たちです
今回の震災ではこれらを教訓として学校のグラウンドに仮設を建てるべきではないという流れになっていると思います
でも自分は今回の震災で改めてこうすることに疑問をいだきました
今の被災地では仮設が都市部にあったり役場に近いところにはたくさんの関心が集まります
遠くはなれたところにはなにも集まりません
時間が経てばたつほど忘れられていきます
自分は新潟中越地震の起きたあと毎年この中学校のグラウンドにあった仮設住宅をたずね
そこでイベントを開催し続けました
追悼イベントは年をおうごとに大きくなり、県外からも集まるようになりました
中学校の子供たちも仮設に暮らす高齢者とのふれあいを授業の一環としてもおこなっていました
三年間追悼イベントをおこなってきたことで行政の人も子供たちも
仮設で暮らす人たちとも
もちろん地元の若い人たち、さらには地元でない若者たちと
仮設住宅のあるグラウンドで集うことができていました
たしかに学校の子供たちの活動を制限してしまうことかもしれませんが
それ以上にもっと大切なことを学べ、より多くの繋がりができる大切さがあると思います
三年間で仮設住宅がこわされる
震災体験後入学した子供たちは卒業をする
そんな節目の3年めにあらためて子供たちにお願いをしました
いっしょに何か作ろうと。
そうしてうまれたキャンドルメッセージが”にいがたからみんなえがおに”でした
友人を亡くし、それぞれが大変なおもいをしてきた子供たちがキャンドルでつくりたいといった言葉
それを地元の若者たちと一緒に作って灯しました
あれから毎年
その言葉を灯し続け
会場が代わっても
新潟のメンバーは誇りをもってこのメッセージを灯し続けています
そして当時中学生だった子供たちは今二十歳となりました
今年も
ずっと灯し続けてきた大人たちに混じり
そんな二十歳となった彼らも一緒になって準備していました
毎年
この仕事に自分は関わることなく
新潟のメンバーが新たなメンバーを交え作ってくれています
派手な花火とかではないですが
一つ一つに切実な想いがのせられたキャンドルを並べてつくられています
たくさんのキャンドルメッセージをこれまでつくったりみてきましたが
これ以上すばらしいものはないと本当に思えます
男たちが中心となり、たくさんのカップを並べて、そしておわったら片付けます
そして女性たちは”まかない”です
地元女性陣が朝から晩までスタッフや出演者のごはんを作ってくれます
きっとこれは世界でも一番といっていいくらいの”まかない”です
これは体験してもらわないと伝えづらいですが
きっとどんなフェスティバルの”まかない”よりも優れていると思います
そこに
スタッフはもちろん福島のみなさんや宮城のみなさん
ラブフォーニッポンスタッフや地元スタッフ、二十歳となった当時中学生だった子供たちや
大学のボランティア、さまざまな人が集い笑顔が生まれていました
震災から8年という年月が経っても
まだ自分はここ新潟の土地や人たちと太い絆があるとは思っていません
ようやく
八年かかってようやくここまでこれたかという気持ちです
悲しみをどう伝えていくのか
悲しみから何を学ぶのか
すでに震災を知らない子供たちがたくさんこのイベントでも遊んでいました
その子供たちにつらかったこと悲しかったことをできることなら楽しみの中から伝えたいと思っています
このツリーハウスは何でたっているの?
なぜこの希望の風船はとばしているの?
この”にいがたからみんなえがおに”ってどういうこと?
追悼式典のときにもしっかりと灯されていた
”にいがたからみんなえがおに”
このメッセージをあらためて見たときに
もっともっと新潟のメンバーを今の被災地に連れて行きたい!
もっともっと福島のおとうさんおかあさんたち
そして今度は若い親子たちを、ここ新潟につれてきたい!
安全でおいしいものをいっしょに作って、そしてこの地震の起きた日におこなわれる
”ソングオブジアース”というフェスティバルで収穫を喜び合いたい
そう思いました
福島の皆さんと作ったお米は今検査に出しています
初めての今年は
福島のみなさんに配る分を考えたらほとんど販売できる量はないのですが
それでも
すこしでも多くの人にこのお米作りを知ってもらいたく準備をしています
これから
お米作りに参加してもらえる企業なども探し出し
もっと来年は多くのお米を
たくさんの家族と一緒にできるようにしていきたいと思っています
被災地にはまだまだ行き続けます
今までの震災とは違い
被災箇所が多すぎて
それぞれの復興のあり方やスピードなどもさまざまで
本当に外部の感心が今あらためて必要というところが多くあると感じます
支援、手助けということではなく
感心を持つ
まずは”今でも常に気にかけている、ともにいますよ”ということを伝えたいのです
それぞれの地域には長い歴史や生活習慣、関係性など
外の人間にはわからないことがあります
被災当時は確かにわかりやすいものが必要でした。外からのものにも感謝があり、それぞれにもわかりやすい実感が返ってきたと思います
現在はそれぞれの地域がなんとかしようという思いのなかで復興計画が進む中では
むやみに外の人間がいろいろやらない方がいいということあります
介入しない方がいいことや、いい場所があると思います
でもそうでないところの方が今回の出来事(震災、津波、原発事故)では多いのだと思います
”自分たちの町の行政が迅速に民意も反映された形で復興計画が進行している”
という地域があるとは聞こえてきません
いい悪いということではないですが
まだまだ
外からのお節介が必要なところが
もしくはうまくいかない復興計画に対しての愚痴を聞くということが必要なのだと思います
隣の芝生はよく見えるということがあるように、愚痴を聞きながらもその町の状況を把握していき
そしてその町ならではの復興をともに進められたらと思います
どうかみなさん
これからも
力をお貸しください
多くの人が一斉に被災地に入っていったあの時から随分時間が経ちました
あの悲惨な津波地域の光景は
あっという間に緑に覆い尽くされ
大平原ともとれる自然豊かな光景にもなりました
でも
北から寒い風が吹いてきている今
多くの緑は枯れ
まだ片付いてはいない、がれきたちが顔を出してきます
”2回目の冬を越せる自信がない”と仮設で暮らす仲良くなった人たちは言います
きっとかつて暮らしていた場所に行くと
力強く、そして淡々と当たり前のように生い茂る草たちがいる
その草たちは震災後、あっというまに土地を覆い隠しましたが
冬になり、枯れていき、またかつての暮らしの足跡が、敷地がみえてきます
この当たり前のような草たちの”生きる”の繰り返しみてしまった
残っていた建物の基礎さえも2年目には覆い隠されていく
かつて当たり前のように暮らしていた自分の家に今自分はいない
ただそこには自然の営みがあり続けている
今の自分はそこにはなく、違う土地の仮設で暮らしている
その仮設の冬の底冷えは耐えられないと。
みなさんに
草たちが覆い尽くす夏にもみてもらいたい風景があります
でもぜひ
本格的に寒くなるこれからの季節に感心をもってください
おせっかいな人たちで被災者の人たちを覆い尽くし
冷たい風にあたらないようにしてあげたいです
どうぞこれからも
よろしくおねがいします
また現地レポートあげていきます
ありがとうございました
Candle JUNE