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10/23新潟中越地震から9年
新潟中越地震から9年の震源地川口へ行ってきました
毎年震災のあった日に開かれるフェスティバルにラブフォーニッポンも参加してきました
311震災の後
この新潟の震源地である棚田で福島のみなさんとお米作りをさせてもらっています
そのお米がいよいよ出来上がったので
その出来たてのお米を福島のみなさんに炊いてもらい
おにぎりをつくって会場に来たみなさんに振る舞うという事をしてきました
また日光山久保でもこのお米作りをおこなっているのですが
山久保のみなさんにも来てもらい
山久保唐辛子を販売したり、新潟のみんなとの交流をもってもらいました
宮城からは山元タイムの山下さんに来てもらい
山元タイムで製作しているものを販売してもらったりしました
ラブフォーニッポンを通じて
他県のみなさんが交流を持ってもらえる
それが以前の被災地でもあるここ新潟中越で出来ることはとても大切なことです
できたてのもち米を新潟の若者達が準備してくれてみんなでおこなった”わっしょい餅つき”
それぞれの地域の人達が一緒になってもちつきをして
それを福島のお母さん達が新潟の女の子達と一緒に素早くとりわけ
きなこやあんこなどをつけて振るまいました
この日は残念ながら雨となってしまいましたが
新潟の若者達は震災から生まれた言葉
”にいがたからみんなえがおに”
をたくさんのキャンドルで灯しました
10/23
この川口町はいたるところに黄色いフラッグがはられ
たくさんの”ありがとう”がメッセージとなってなびいています
震災から10年が経とうとしていても
「全国のみなさん!震災のときは本当にありがとう」と
黄色いフラッグがはり出されます
気持ちのよい秋晴れにこの黄色いフラッグをみるとなんだか涙が出そうになります
震災があった日を、命日を
かなしみを思い出す日にするのではなく
感謝を伝える日に
そしてお互いが喜び合える日に変えている
自分たちが体験したことを悲しみのなかで語るのではなく
喜びのなかに伝えていく
そして
あらたな悲しみの場所にその喜びと感謝を届けにいく
そんなことがここ新潟の震災のあった場所の震災が起きた日にあるのです
震災からずっと走り続け
つながって来た東北のみなさんをぜひこの新潟の震災のあった場所に
そして震災が起きた日に一緒にここにいたいと願っていました
たくさんの笑い声のなか
みんなで餅つきをできたことは本当に良かったです
新潟中越のみなさんは
震災直後から東北の被災地へ支援に向かいました
その活動内容にはリアリティがあり
被災地での緊急ラジオ局開設であったり
行政のなかに入り緊急対策チームにはいったり
物資の内容、炊き出しのしかたにも経験したものならではの内容でした
震災被害時のマニュアル的なものは日々の訓練などでも各行政がもっているものがあると思いますが
実際は
被害にたいしての対応だけでなくそれらのアピールをどうするのかといったことはマニュアル化されていないはずです
そして結局は町のプレゼン力が強い地域などに支援が集中するといった不平等が発生します
ここ新潟でも山古志村はずば抜けて全国への訴えかけができていたおかげで
多くの支援が集まりました
それは同時に
近隣の町村からは疎ましく思えたりする事でしたが山古志村のみなさんはその経験をこの311震災の被災地にも
伝えてくれています
今回の震災でもスポットがあたる町とそうでない町ができました
そもそも震災の規模が大きすぎるということ
地震による被害と津波による被害
そして原発事故による被害と被害内容の違いも影響していると思いますが
それでも
けっして平等とはいえない現状が出来てしまっています
物資提供はじめ行政の在り方の基本は”平等”にです
各都道府県はもちろん国という単位でもそれは基本にあるはずです
ですが
緊急時の訓練事項や対策は同じようなものでも
現在これだけの差が生まれてしまいました
きっとこれには行政のというか”システム”の限界なのだと思います
支援団体のみなさんはそれらを理解した上でのアクションなので
行政では足りていない部分を埋めてくれました
各団体も
これまでの震災などから学んだ結果なのだと思います
もちろん自分もこれまでの経験があったので
なるべく無駄のない物資提供や炊き出しをおこなう事ができてきました
だからといって
行政のみなさんがだめだということは言いません
日々ルールを重んじ仕事をされている行政のみなさんも
震災直後は日々の”決められたルール”ではなく
”人としてのルール”で寝る間もなく活動していることを知っています
だからだめだとは言いませんが
震災からまだ三年も経たないのにすでに”平等”発言が増えてしまっています
何のせいなのか?
大きな戦争があり
大きな原爆が落ちました
そしてたくさんの人が亡くなりました
それでも
人は時間が経てば原爆が落ちた近くにも原発を建てます
原発が事故を起こしても
原発を稼働させようとします
とても簡単に書いてしまいましたが
これが現実ですから現時点では仕方がないことだと思っています
またついでに書いてしまいますが
放射能の被害というものを多くの人は理解していません
”いつか癌になる”
”奇形児がうまれる?”
福島に何度も通っているけど被害の人見た?と聞かれます
「自分はたくさん見て来ています」
何十年と先祖からつくってきた畑、たんぼでもう作物が作れなくなった
小学生の女の子が”もう私は子供産めないんだよね”
大人達の日々の不安からアトピー症状が酷くなった子供達
原発地域と避難地域の人達の衝突
多くの訴訟、自殺者の増大、ストレスから来る様々な病
他県に引っ越して受けたいじめ‥‥などとたくさんの被害が出ています
「直接的にそれらすべてが放射能のせいではないと言われたらそれまで」といった言葉をセットにした
この被害が放射能の被害です
これはどんな病気よりもおそろしい被害であると思います
実際に放射能が飛散していない地域やそこに暮らす人でも今では福島という言葉でくくられるのであれば
風評被害となります
未だ原発は不安定で汚染水も垂れ流し完全停止のめど経たぬなか
ほんとうに風評被害で済むのかもわかりません
こんな状況の福島原発があるにもかかわらず
また
全国の原発が稼働してなくても夏を乗り越えた今でも
再稼働の話が出ています
たくさんの人が反対運動しても
デモをしても
政治に関心をもって選挙に行ったとしても
世界は変わったのでしょうか?
諦めるという事ではありませんが
今の現実をしっかりと受け止めるべきだとは思います
”反対”という事よりも
いっしょにごはんを食べる事
隣人の子供達やお年寄りの世話をすること
そんなことがやはり自分にはリアリティがあることであり日々実践できることなんだと思っています
きっと政治に関心を持つより
新しいコミニティを作る事のほうが大切だととも思っています
本当のかなしみを知った人達とより多く仲良くなることのほうが
本当の喜びを知る事が出来て
それらを子供達に残すが大切なはずだと信じています
今の日本の”システム”におかしいぞと思いながらもそれをなんとかするための毎日ではなく
それによって苦しんでいる人達とともに悲しみを分かち合ったり
よろこびあったりすることのほうがきっと
”地球の上に、この日本の大地とともに生きるほんとうのシステム”
を作り出せる一番確かでもっとも早い一本の道を進む事になるのだとも思っています
歩みは遅く
広がりも小さなものとなってしまっていますが
被災地のみなさんと一緒に歩んでいきたいと思います
今月は新潟でとれたお米をもって福島の仮設で収穫祭をおこないます
新潟からも山久保からも宮城からも集まってくれて
今年1年みんなでがんばったお祝いをします
もうすぐ被災地は
本格的な冬となります
三回目の冬をすこしでもあったかいものとなれるように
たくさんの笑顔がうまれるように
歩み続けます
みなさん
これからも
どうぞ
よろしくお願い致します
Candle JUNE