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11/11月命日を前に復興住宅訪問
11/11の月命日の前日に浪江町のみなさんが暮らす仮設住宅に訪問してきました。スタッフレポートです。
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住民の方の一人が、原子力災害当時のこと、
これからの不安 などたくさん話してくださいました。
大熊町の境に近い浪江町の方で、震災当日 ご自宅から原発の爆発した煙を見たそうです。
道路の地割れもひどく 何がどうしたのか全くわからず、 避難指示も出ないまま 錯綜する情報の中で、
汚染量の高い避難区域にもかかわらず2日間ご自宅で見動くことができずにおられたそうです。
その後 避難指示が出され避難してくださいと言われ、
直ぐに帰れるものだと思い、数日間分の着替えを手にしただけで、
福島県内の避難所を訪れたものの、どこも既にたくさんの方々でいっぱいで数カ所もの施設を周り、
ようやく人がひとり横になれるだけのスペースを確保してもらい避難所に入れたそうです。
その状態で8ヶ月もの間 体育館での避難生活を余儀なくされていました。
その後も数カ所の仮設を転々と移り住まされ、去年、この復興住宅の抽選に当選されたそうです。
それ以前にも復興住宅の抽選に当たっていたことはあったが仮設で自治会長をしていたから、
みなさんを放って ひとり移り住むことが偲ばれたとお話されていました。
「仮設に住んでいたときは、広い集会場にたくさんの催し物があった、今より住民との関わりや近所付き合いはあった。
でも、ここに来てからは同じ棟でも誰がどこに住んでいるのか、顔は見たことあっても名前は知らない。
集会場も三階建が六棟もあるのに、小さい集会所が一つだけ。これでは住民が集まれない。」
「催し物をしても、来る人は決まっていて あとは出てこない。
俺は独り者だから 新聞が3日溜まったら、部屋の中を確認してくれと隣の人にお願いしてある。家の鍵は夜でもかけたことはない。」
「不安だ。とにかく不安だ帰りたい。浪江に帰りたい。」
「避難指示は解除されることはないだろう。帰れるものなら掘っ建て小屋でもいいから
建てて浪江町で暮らしたい。」
「俺は、水道の水は飲んだことなかった。裏山から湧き出る水が恋しい。
浪江町にある自宅に帰るにも手続きの面倒な許可証を手配して年に30回しか帰れねー。」
「今は、帰ったって 全部持ち出し禁止 防護服に長靴履いて除染してから浪江町をでなきゃなんねー。
ただボロボロになった家見に行ったって悲しくなるだけだ。草刈りもできねー。
先祖の墓だってあんのに。どうすんべか。」
「たくさん居た親戚、友達も 震災以来 避難で てんでバラバラ 未だに親戚の居場所すらわからない。
浪江町役場に聞いたって 住民同士 コミュニケーションとれってわりには、個人情報だから教えらんねーって。」
「町役場は帰ることばっか押し付けて 帰れねー俺らは、切り捨てだ。」
「はっきり言って県も浪江町もなんの役にもたたねー。金は儲けてるはずなんだぁ
この先どうなるべか 不安だなあ。。。」
たくさんの想いを話してくれました。
最後に月命日に灯すcandleメッセージのカードに
「 浪江町の未来が心配だ 帰りたいけど帰れない 」
とお気持ちを書いていただけました。
被災された方の郷土愛と、現在の姿を見て、聞いて。触れて、自分に何ができるのだろうか?
ただ ただ 聞いて聞いて聞いて、、、。
それしかできないけれど また、この復興住宅のみなさんの心に触れに戻りたいと思います!